アゴタ・クリストフ「文盲」 ー 物語的自伝というよりも小説

もし自分の国を離れなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか。もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心引き裂かれることもなかっただろう。幸せでさえあったかもしれない。

 実質的なロシア占領期のハンガリーから、幼い娘を連れてスイスに亡命する。そこでは、衣食に困ることはない。周りの人間は親切で、物質的に言えば、求めていたものはおそらくほとんどが手に入っている。それでもその見知らぬ土地は精神的な砂漠である。知り合いも、故郷の風景も、何より作者にとって重要だった母語も存在しない。

 「悪童日記」からの三部作はこの時の経験が下敷きになっている。というより、アゴタ・クリストフの書く話はすべて、これらの経験のバリエーションなのだろう。ホロコーストを生きのびた一部の作家が、ホロコーストのことを書き続けるように。作家であること自体に、明確なモチーフを持っている。その明確さはおそらく寡作であることにもつながるのだけれど。

 この本は、作者の自伝であって、とても短い小説として成立している。「悪童日記」からの三部作と違い、そもそもの希望のなさが全体を支配しているわけではない。作者は子どもを持ち、作家として活動している。動乱期のハンガリーで、心の拠り所としていた「書くこと」を、母語ではない言葉を使うようになってもなお続けている。

 冒頭の引用は、以下の一文に続く。

確かだと思うこと、それは、どこにいようと、どんな言語であろうと、わたしはものを書いただろうということだ。

 

文盲: アゴタ・クリストフ自伝 (白水Uブックス)

文盲: アゴタ・クリストフ自伝 (白水Uブックス)