ジュノ・ディアス「こうしてお前は彼女にフラれる」 ー 軽そうに見えて確かに軽妙なのに、ぜんぜん軽くない

「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」の次作にあたり、スピンオフ的な「こうしてお前は彼女にフラれる」を読みました。前作はオタクの話、今作は浮気男の話、みたいな、どこかで聞いた前評判から軽い感じを想像しがちなのだけど、全然そういうものではありませんでした。ただ、確かに浮気男の話ではあります。

こうしてお前は彼女にフラれる (新潮クレスト・ブックス)

こうしてお前は彼女にフラれる (新潮クレスト・ブックス)

 

  主人公のユニオールは、前作ではオスカー・ワオのルームメイトでした。オタクで人付き合いの苦手なオスカー・ワオの面倒を見たり、愛想をつかしたり、たまに感傷的になったりもしていた人物です。今作でユニオールが彼女にフラれるのは、レビューとかで読んでいたまま、浮気をするからです。

 モテる男が女の子と遊びまわり、浮気が発覚してフラれて、しっかりと落ち込む。そう聞くとなんだかコミカルな、軽い感じを想像しそうだけど(実際にそういう面もあるのだれど)、小説の語り口は軽さ一辺倒では全くありません。

 読んでいる人がそう感じるのは、ユニオール自身の育ってきた環境や、周囲の人間に与えられた影響にあると思います。時系列が直線的ではなく、そういったことは読み進めるにつれてわかるようになってくる。「オスカー・ワオ〜」も同じでした。なぜこんな展開を思いつけるのだろう。

 家族を捨てた父親、若いうちに死んでしまった奔放な兄、そうなりたくないと思っていたはずなのに、ユニオールは彼らの生き方をなぞるように青年時代を過ごします。ほかにも母親はほとんど兄にしか関心を示さないし、はじめてまともな性的関係を持った相手は母親くらいに歳が離れています。

 ユニオールは自分が何を欲しているのかを理解していないし、おそらく理解してもそれに向けて手を伸ばすのを恐れるでしょう。一種のトラウマを抱えたまま成長したような存在です。

 主人公は本質的には善良で、感傷的な人間です。読んでいる人のうちの多くは、ユニオールみたいな人間には幸せになってほしいと、人を傷つけて自分も傷つくような生き方からは脱してほしいと感じるのではないかと思います。そうして、ふと、これは小説なのだから実在はしないのか、と気がつくでしょう。少なくとも僕はそう感じていました。

 だからこそ、最後の方の展開には驚きました。途中までの感慨をひっくり返すくらいの急な変化です。それらを虚飾を剥がして抱え続けてきた問題を乗り越える機会になりうる、と考えるかどうかは、読む人によりそうです。

そして続く数ヶ月間、お前は熱心に書き続ける。それは書くことが希望のように、恩寵のように感じられるからだ ー そして嘘つきで浮気者のお前は心の中で、時に手に入れられるのは始まりだけだ、と知っているからだ。 

  むしろ扱っている題材は重い小説のように思います。語り口の軽妙さでそれを感じず、いつの間にか読み終わっている。続くのならずっと続いて欲しかったくらいに。